揺さぶるを英語で言うと
なんだろう
Shake the headかな
絶対違うけど
秋が訪れたあたりから今日まで、多分ここ数年、下手したら十数年の中で1番本を読んだ期間だったのではないかと思っています
ほとんどが仕事に関係する保育の本です
写真で紹介します
夏の後半くらいから火がついたように本を読み始め、今に至るまで読み続けています
まあ、普段から読む習慣のある人からすれば大した冊数ではないのでしょうが、これまで新年の誓い的なSNSへの投稿で今年は本を読みますと豪語しているにもかかわらず続かなかった僕としては今年は本当に本を読んでいると言えるのです
まあ、簡単に言うと今回のブログではそのプチ読書自慢がしたかっただけなんですが(笑)
でも、それでも、この数冊を読んだことで確実に自分の保育観という貯水槽に、でかめの石をドボンと投げ込んでもらったので、今、日々、仕事で子どもと向き合う中でも毎日shake the head 状態です
その中でも1番大きくshake the headさせられているのは、これまでとは保育の方向性が変わってきていること
そして、その方向性と自分がやりたいやってみたいいいなぁと思っていた保育の方向が当たらずとも遠からずであったこと
少しずつではありますがこれからの保育も語れるようになりたいので少しだけここに書いてみますが、正しいかどうかはあまり自信はないです
僕なりの解釈です
小学校関係の人も聞いたことがあるはずの、最近話題のアクティブラーニングという言葉
これまでの先生が板書やプリントなどを使って学ぶ内容を教えて、生徒はそれを聞いたり、見たりしてノートを取るという一方通行型、生徒目線だと受動的である教え方に対して
生徒が能動的に学びを生み出し、掴み取っていく形式がアクティブラーニングです
※誤解や誤学習が怖いので文科省のサイトから正しいもの引用します
『アクティブラーニングとは、学習者である生徒が受動的となってしまう授業を行うのではなく、能動的に学ぶことができるような授業を行う学習方法です。生徒が能動的に学ぶことによって、「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。』(2012年8月中央教育審議会答申)
とあります
なぜこのアクティブラーニング(実は最近はあまり聞かなくなったけど)が評価されているのか
それはこれまでのとにかく知識を詰め込んできた20世紀型の教育の存在があると思います
戦後の高度経済成長が背景にある、その20世紀型の教育はとにかく物を生み出して作って売って生み出して作って売って生み出して作って売って・・・を繰り返してきました
そこで必要とされる人材は、目の前にある大量の仕事をばんばんこなせるような人
良い大学に入り、良い成績を取り、良い会社に入って、どんどん利益を生み出していける人、が求められていたわけです
そうなると必然的に、小中高ではとにかく人より知識を、と詰め込み型の教育が行われます
それが20世紀型の教育だと思います
しかし、高度経済成長が続いてくると、人類は気がつくわけです
あれ、このままだと資源足りなくね?
ていうか、地球暑くなってね?
やばいじゃんやばいじゃん、どうすんの
そこで人類は考えました、対策を
「キミ!地球温暖化、なんとかならんかね!?」
「地球の冷まし方、習ってないんで無理で〜す」
というような感じで、知識だけはあるものの、その知識を他に生かす、応用することができない人材が増えてしまったわけです
(あぁ、書いていて色々語弊があることは重々承知です許してください)
ここでもう一度引用
文科省のサイトでは教育の現代的な課題として以下のように書いています(下線はぼく)
『現代的な課題
(前略)社会の質的変化等を踏まえた現代的な課題に即して、これからの時代に求められる人間の在り方を描くとすれば、以下のような在り方などが考えられる。
・社会的・職業的に自立した人間として、郷土や我が国が育んできた伝統や文化に立脚した広い視野と深い知識を持ち、理想を実現しようとする高い志や意欲を持って、個性や能力を生かしながら、社会の激しい変化の中でも何が重要かを主体的に判断できる人間であること。
・他者に対して自分の考え等を根拠とともに明確に説明しながら、対話や議論を通じて多様な相手の考えを理解したり自分の考え方を広げたりし、多様な人々と協働していくことができる人間であること。
・社会の中で自ら問いを立て、解決方法を探索して計画を実行し、問題を解決に導き新たな価値を創造していくとともに新たな問題の発見・解決につなげていくことのできる人間であること。』
(文科省 新しい学習指導要領が目指す姿についてより引用)
特にこの中でも下線を引いた部分、そこが重要だと考えています
「何をどのくらい知っているか」よりも「知っていることをどう生かすか」ということに重きを置くようになったということが最大の変化だと思うのです
とても多くのことを知っているけれど未知のものには歯が立たない人ではなく、未知のものに出会っても知っていることを駆使して立ち向かっていける人、を育てていこうという方針に国全体がシフトしてきているということです
20年後には今人間がしている職業のおよそ50%が機械に取って代わられ、自動化していくと言われており、その50%分の人々は、今はない新しい職業に就くとも言われています
そうなった時に、分からないことはできない
初めてのものには対応できない
では、困ってしまうわけです
こんな背景があるからこそ、アクティブラーニングやら、協同(共同、協働)的な学びやらが注目を集めているのです
人から教わるだけではなく、自分で人と話したり本を読んだりして、自分なりの考えを持ち、それをまた人とぶつけ合いながら磨いていく
その繰り返しが、主体的に物事を考え、創造的なアイデアを生み出していくことのできる人材を育てていくことにつながるのです
話がだいぶ脱線しましたが、ここで保育の方に話を戻します
そしてここでさらにキーワードとして挙げられるのが、 認知的能力と非認知的能力です
認知的能力とは、数を数えられる、漢字が書けるといった目で見える能力のことです
それに対して非認知的能力とは、粘り強さや協調性、忍耐力といった目に見えない能力のことです
OECDによる国際調査と教育に関するレポートによれば、
この2つの能力はどちらかが良くてどちらかが良くないというものではなく、相互に密に関連するものとして示されています
そして、保育の世界では、この2つの能力のうち、非認知的能力を育てていくことが重要であると私は考えています
友達との関わりや、遊びの中で工夫したり試行錯誤したりしていくことなどの中に、非認知的能力の育ちがあると考えるからです
そんな世の中の動きもありつつ、保育の世界(というか僕の周りの保育の世界)の歩みを見てみると、
数年前までは子どもに対して、保育者が考え練り上げた活動を提供し、そこから保育者がこう育って欲しいと願った学びが子どもたちの中に生まれることを良しとしてきました
しかしそのやり方の中には、子どもは弱い存在、守ってあげなければならない存在、放っておくと悪い方へと育ってしまう存在というように、ある意味では子どもを信じず、大人がなんとかしてあげなければいけないという考え方が内包されています
そうなると保育の活動は上に書いた通り、子どもの気持ちを無視し、大人の願いばかりが詰まったものになります
当然ながら子どもにとってはやりたいものではないことが多いので、つまらなくなります
つまらなければ子どもはだらけたり、違うことをしたり、フラフラし出します
そうなれば、その子たちは保育者に叱られ、諭され、型にはめられます
型にはまらない子は、気になる子としてレッテルを貼られ、自分の気持ちを押し殺して黙って言われたことをできる子が「良い子」として見られていきます
そんな“大人主導保育”が展開されていくのです
僕はなんとなくこの風潮というか、雰囲気を就職当初から感じていて、微力ながらその大きな流れに抗ってきました
子どものやりたいと言ったことにはとことん付き合い、多少の悪戯やケンカは大目に見て、なるべく注意を少なく、というふうにした保育者1年目の僕でした
ところがそれで出来上がったクラスは、賑やかで、まとまりがなく、落ち着きもないクラスでした
行事や集会などでは必ず誰かが“浮いて”しまう
そんなクラスです
当然、主任や園長たちからは、
「もう少しまとまりを」
「生活面がなってない」
「やりたいことにだけ付き合っていればいいわけではない」
とお言葉をいただきました
もちろん、自分自身の保育者としての技量のなさは何度も痛感しましたが、それでもあんなにのびのびと楽しそうに過ごしている子どもたちの存在すべてを、クラス経営のすべてを否定された気がして、当時はかなり落ち込んだことを覚えています
そこから数年が経ち、そんな経験も積みながら歩んできた僕はいつのまにか子どもたちのことを、型にはめようとしていたのです
「生活態度を正させないと、またうちのクラスだけ言われてしまう」
「どうせ、これやりたいと言ってもダメと言われるだろうから無難な方にしておこう」
そんなふうに考え始めると、子どもたちのできないことばかりに目が向き始めて、口から出るのは注意や小言ばかり
そんな時に出会ったのが今回写真でアップした本たちでした
本はどれも違った切り口でしたが、言わんとしていることは全て同じことのように感じました
それは先ほどの大人主導保育に対して、
子どもは自ら育っていく力がある
ケンカや一見無意味な行動にも必ず何かしらの理由がある
保育者は子どものやりたいと思うことにとことん付き合い、そこで起こっていることから子どもが何を学んでいるかを言語化していくことが大切である
と言うように、子どもの育つ力を信じる保育、言わば、“子どもが真ん中保育”を掲げていました
読んだ瞬間
僕のやりたかったことはこれだ!!
と思いました
本を読んで鳥肌が立ったり、胸がドキドキしたりしたのは本当に久しぶりでした
(確か記憶にある中で初めてそれを経験したのは十五少年漂流記を読んだ時だったと思います)
僕はその本達に力強く背中を押されたような気がしました
君は間違ってなかったよ、それでいいんだよ、と
もちろん、僕にも改善すべき点は星のようにありますし
そもそも子どものやりたいを優先する=生活面が乱れる
ではないこともだんだんと分かってきました
そして
その自分がやりたかったこと、目指したかったこと、理想の保育に出会えたこと
その保育が、実はこれから先求められている21世紀型保育と重なる部分が多いこと
それが嬉しくて、楽しみで、今の自分とはかけ離れすぎていて、shake the head
状態なのです
お前はそれでいいのか
まだそんなことをやっているのか
将来、君はどうするの
と無言のプレッシャーを感じています
今ここでこれらの本に出会えたことは、本当に幸せでした
今の自分を見つめ直す機会を持てたことが何よりも嬉しいです
これから先、少しずつ、ゆっくりでいいから自分なりに保育を探求し、地道に、地道に、歩んでいこうと思います
本当は今自分のクラスで始まっている遊びについても触れたかったのですが、あまりにも長くなりすぎるため、今回はこの辺で締めさせていただきます
今の自分の中にある精一杯の知識と熱意をかけて書いたこのブログ史上、最長のブログでした。
おわり
追伸
後日、写真で載せた本に関しては、情報を追加で書き込みます。今回はもう眠いので、おわり。